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【多死社会】で「死」が身近に?!昔の寿命は40代?死生観を塗り替えよう

超過死亡10万人超え?!多死社会になってきている

身近でいうと実母が、だいぶ前から体調を崩していたであろうところ、コロナ禍の2020年に癌が発覚し、翌年その脊髄・脳転移によりあっという間に亡くなった

さらに、亡くなった母の兄(私からみたらおじさん)が、つい先日、肝硬変で急逝

母もおじさんもまだ平均寿命にも満たないのでびっくりだったけど、他にも親戚中で末期がんなど持病が進行していて「そろそろじゃないか」「いよいよ危ない」という話がある人が続々おり、近年中ずっと訃報を聞きそうな予感しかしない…といった状況。

いわゆる戦後世代(70代前後)が、寿命を迎えてバタバタと亡くなる時期が間近となってきているように思う。

身近でも確かに世代間はもうちょっとズレがある場合もあるけど(若い人もいたりするけど)、「急死」の話は本当によく聞くようになった。

老年世代は特に人数が多いだけに、一気に寿命が来たらすごい死亡者数となりそう。
おじさんの火葬も、亡くなる人が多く火葬場が混んでいて数日待ちだったのだとか。

そして報道では、芸能人の自死や急死までも異様に死にすぎじゃない?というぐらい相次いでいてびっくりな始末。

実はこれだけ死亡が増えているのは、データとしても出ている。
つい最近の2022年は特に、日本の人口動態統計が騒がれているのをご存知だろうか。

厚労省の人口動態統計より最新を追える

全国の自治体等からの集計に時間かかるっぽいので、これを書いている2023年1月にはまだ去年すべての数値が出せてないみたいだけど、2021年からじわじわ超過死亡が増え、2022年は10万人を超えた爆増レベルになった。

元々、少子高齢化により死者が大幅に増える段階に入っているので放っておいても年+2万人ぐらいのペースで増えていくものらしいが、それを大幅に超え、今年は大震災級の災害が出た年レベル以上の超過死亡が出たということになる。

コロナはじまった当初は多くの人が受診控えなどしても、逆に超過死マイナスだった。

なら原因は何故だ?!と色々推測されている模様。

  • コロナ「第○波!」の流行月に超過死が多いので、医療逼迫のせいでは?
    →確かに相関しているように見える。けど、比較的新規感染者が谷間となり、医療が全く逼迫していない時期にも、超過死がガツン!と増えている謎があるので(2022年10月など)そこの説明が難しい。
  • ワクチン接種がはじまってから大幅に超過死が増えたため、健康に何らかの影響があるのでは
    →反ワクの人達がよく騒いでるのがこの説だが、確かにEU保健局ほか公的機関・免疫学者なども「繰り返すブースターで自己免疫が低下する可能性」を以前から変わらず訴えていてそういった論文も多数。コロナ抗体が一時期あがっても他の免疫が下がれば、結果として別の病気でどっちみち死んじゃう的な遠因はあるかもしれない。
  • マスクだ消毒だ自粛だワクチンだので、もしかしたら過剰なコロナ対策で免疫がさがり・体が弱り逆効果ではないか説
    →確かにお年寄りはコロナ禍でフレイルや認知症が加速しているという報告もある。私はこういった過剰なコロナ対策(無菌状態を目指し、忌避ばかりを考えた対策)やコロナ禍という制限のあるストレス・不安などが、結果的に自分の免疫活性化を妨げ、免疫がさがって病気になってしまう結果を生んでるんじゃないかな~と複合的な原因を推測中。

まあでも、原因深堀り方向ばかりへ行くつもりはない。❌✋

原因よりも、事実の現象として「死んでる人が異様に増えている」という事実にまず注目したい。

参考:日本人は「超過死亡増加」の深刻さをわかってないー東洋経済オンライン

ちょっと前まで40代が平均寿命?!(平均寿命グラフ)

長い歴史上、本来死はもっと当たり前にあった

昔は、子供も大人もバタバタ死んでいた。
私の祖母世代(大正生まれ)では、兄弟のほとんどが子供のうちに死んだと聞かされてきた。

衛生状態・栄養状態が庶民より良さそうな中世の貴族たちなんかも、世継ぎとして生まれても長く生きられなかったのが普通だった。(貴族は近親婚が多いってのもあるが)

軽い感染症でやられたり、ちょっとした飲み物や食べ物にあたって死んだり、ちょっとした怪我が致命傷になって死んだり、盲腸みたいのでもすぐ死んでたし、気候が悪くて食糧が育たない年は一斉に餓死、繰り返される戦争でもボコボコ人は死んだ…ってなことが日常茶飯事で、昔はもっともっとあっさり人は生きたり死んだりしてた。

けど、戦後から一気に医療や科学が発展し、衛生状態・栄養状態も良くなって、あっというまにただの長生きが標準・正義化私たちは急に命に長さと重みを感じだして、錯覚しだした。

↑グラフからも戦後にポーンと飛躍的に寿命が延びたことがわかる。
100年前ぐらい昔は、女性の寿命44歳ぐらいなので、その頃に生まれていたら自分もとうに死んでたかもしれないことにびっくり。(今40代なので)

昭和初期でもこの認識だったらしい(ぎゃー)

こんな流れから、私達の価値観も「長生きがベスト」のように時代に刷り込まれちゃってきて、死を「タブー」としてしまってる気がする。

近年平和すぎてボケてただけで、当たり前の「人類史の大半が生と死は隣合わせだった」ということを忘れていただけかもしれない。

体調不良でわかる、「死」のこわさ

去年、夫がトイレ後に「大量に下血した」と神妙な顔で告げてきたことがあった。

え?大量下血というとイメージ的には“急変しやすく急に死んじゃう”系?救急車案件か?と慌てたことがあった。

結果ただの「痔」だったんだけどw、一瞬心がざわついたから、自分の家族(夫・子供)はまだ絶対に死んではならない。っていう執着と思い込みが、まだまだ自分の中にあるんだなーってのは客観的に感じた。(もちろんそれは当たり前)

また、去年から私個人にも健康に難が。
色々端折るけど(詳しくはアメブロ健康カテゴリにて日記アリ)、激しい動悸息切れ・頻脈性発作のようなものが持病化してしまっていて、あまりの苦しさに救急に駆け込んだこともあった。

色々検査しても体に問題なく、たいしたストレスもないので精神的なパニック発作的なもんでもなく、ホルモン周期と重なっていたし血液検査で細菌感染のあとか見られたことからも、どうも更年期症状など含む複合的な理由での自律神経症状(交感神経亢進症状)と見られてるけど、全速力で走ったぐらいの150をゆうに超える早い脈、呼吸困難、へたれこむほどの尋常でない動悸にはあまりの苦しさに「死」を正直、意識せざるを得なかった。(今現在も生活改善したり治療したりしてる最中)

こんな経験からふと思うけど、やっぱり死ぬのは怖いなあ~てこと。

そういう体調になってみて初めてわかる底しれぬ恐怖。
本能的恐怖なのでこれは仕方がない。

そして現実の生活の中で、何もかもが中途半端で、このままでは家族のこと子供のことなど心残りが多すぎて、死ねない~!!人生いろいろ準備不足すぎるー!!ってことをその時すごく思った。(笑)

でもこれからの時代、ここを覚悟しないとな…と。

どんなに身近な人であっても、自分であっても、意外とあっさり死んだりすることってあり得るのかも?ってふとよぎった。

「皇の時代」には、祖の人間が大量に亡くなる?

知ってる人から「皇の時代」の本が面白いよと勧められていたため、買って読んでみた。

↑上記の本はすごく難解なので、同じ内容をもっと普通の人向け?に噛み砕いたバージョンの本(著者は別)もある模様↓

さらっとしか読んでないものの…内容から察するに、分野としてはスピリチュアル(精神分野)っぽいけど、どちらかというと天文学・占星術の「風の時代」の話に近く、宇宙の星めぐりのような、何万年・何千年ごとの”時代サイクル”を見ると、人類は統計的にこういうサイクルで時代が動くんですよ~といったことを研究している人の本だ。

今は「祖(ソ)の時代」から「皇(オウ)の時代」へ切り替わる時期が来ている

との内容。

「祖の時代」はいわゆる以前本ブログでも取り上げたことのある占星術的な「アイ・ビリーブ」の時代のことを指すのだろう。

権威や宗教や教育など何かを信じてすがる時代。そして、苦労してモノ作りに励み、先祖や神様を敬い、資源やエネルギーの奪い合いで争う「夜(闇)の時代」。

どっちの時代が良いとか悪いとかの話ではないけども。

これが、時代転換すると、古い時代(祖の時代)の気質・体質・価値観の人達はお役御免となり、「自然界」から淘汰されてしまって、大量に亡くなる時期に入るというのだ。(淡々と書かれているけど、結構恐ろしい話)

でも、現実に日本では、祖の時代の象徴的な人々=団塊世代がこれから寿命を迎えて続々亡くなってくるタイミングなので、たしかにこの話は荒唐無稽でもないようにも思う。

そして次に来る皇の時代は、自分が主軸となり生きるエネルギーに満たされた昼の時代で、自分らしく自由に楽しくラクに生きられる時代とのこと。
逆にこれまでの祖の時代のルールや価値観ではうまくいかなくなるらしい。
今はこの時代への移行中であり転換期であるとのことだった。

具体的な人口減少に関する話として、

地球規模でいうと、人口が80億人→30億人ぐらい。
日本規模でいうと、人口が3千万人亡くなる

になるという話もあった。
原因は、天変地異や病死などの自然由来で、偶発的・必然的な淘汰となるとのこと。

当ブログでは「グレートリセット」という既存社会の破壊期間が今~これから起きてることですよーってのを主張しているけど、この期間を通して激動の時代の移り変わりとして人間も一定の入れ替わりが起きることは、可能性としてはありうる。

私自身、パンデミックがはじまった時点で、コロナで直接死ぬかどうかはわからないけど、たくさんの人が心身を病むんではないかなということは、何となくピンと来て予感をしていたし、その現実は実際に今起こっている。

また、「グレートリセットは聖書になぞらえて進んでいる」との見解も当ブログであげているけど、聖書にもこの大艱難時代(グレートリセット時代)に人口がかなり減ることを預言されており、実際そのとおりに、多少の犠牲は仕方ない方向(弱者切り捨て方向)へ政治なども進んでいる。

なので、最初は「皇の時代」だなんてトンデモオカルト理論かな~?と感じていたけど、よくよく冷静に受け止めると案外大きく現実から外れた話ではないように思うのだ。

具体的には、

  • 急激な社会の変化に耐えられずに物凄いストレスから心身病んでいく人
  • パンデミックの過剰なコロナ対策の諸々(マスクワクチン消毒自粛)で、不健康になった結果、体が弱って死んでく人
  • 社会混乱期ならではの争いに巻き込まれる人(暴動・事件・無敵の人案件・戦争)
  • 経済苦や餓死・気候変動死

といった理由で、自然と「これからの時代にそぐわない人・適応できない人」が生きづらく・苦しくなる(時には命を落とす)可能性が高いと私はみている。

華やかに見えた芸能人の自死の多さや急死などでもわかる通り、時代変化に心身がついていけなくてそのようになっているように思うのだ。

ズバリ「死」とは何か。向かう先は“解脱”

以下は、宗教・哲学・量子力学観点からの私の仮説。

お釈迦様は「精神が主体」であることを説いていて、いま生きている我々のこの肉体が「私」ではないってことを言っているのをご存知だろうか。

仏教の無我説=「実は我(自分)なんて存在して無い」という主張がある。


要は、私が私と認識した時点でこの人生が急に存在するのだ。
(デカルトの「我思う、ゆえに我あり」も同じ感じかな?)

自他の境界や自己を錯覚しやすい「肉体」を脱いだ時(=死んだ時)にようやっと、「無我」(=実は私は私じゃなかった!ということ)を思い出すと、一瞬にして今のこの世界観(例えば、私は地球の日本という国で主婦としてお母さん業やってます的な精密・精巧な人生)はたちまち存在しなくなるのではないだろうか。そこが「死」というフェーズでまず最初に起こることなのではないかと思う。

これは量子力学の観点から言っても、そうだろうなと思う。
そこまではピタッと止まっていたもの(無のようなもの)が、意識を向けた先の「粒子」だけが世界観として慌ただしく振動して現象として動き出す、という感覚。
それが今肉体として生きている我々が見ている世界の実態なのかもしれない。

さらにお釈迦様は、何回もその精神(魂)が生まれ変わる仕組みであることを知っている上で、最終的にはその「輪廻から抜けろ(解脱しろ)」って説いてる。

これって、「私」は「私」である。と錯覚したシミュレーション人生を自分の認識だけで意識を向け続けて動かしている(or作っている)にすぎず、それが一旦終わって気づくタイミングが「死」の段階であるけど、でも魂(意識体)は不滅のため実は「最後」なんて無く終われない。
だから、私達の思い込みで「生・死」を輪廻転生で繰り返しちゃってるんじゃないか?ってことなんだろうなと私は理解している。

(読者が全然この話についてこれてないのをヒシヒシと感じるけど…)

そこから抜けるのがお釈迦様の言う「解脱」なんだろうと考えている。

以前、インドのヨガ伝道師ヨガナンダの伝記かなんかで「自分という感覚が薄れ、身の回りに存在する木とか電柱とか(?)のすべてのものと自分の意識が完全に同化・一体化した」のような不思議な瞑想体験を読んだことがある。

実はそれ読んだ時「ああ、なんとなくわかる…」って共感した私。
私自身、寝ぼけている時にそういう死後の世界の感覚(私が私でないけどすべてと一体でもあるような感じ)をふっと思い出したことがあった。

エゴがなく、「YES」しかない世界観。
「全肯定」の感覚しかない空間。

つまり、IはYOUでありWEでもTHEYでもあるけどEVERYTHINGでもありNOTHINGでもあるみたいな、無でも有でもない究極の主体性と客観性というアンビバレントの状態。

でも、自分の存在への全肯定だから、強烈な愛しか感じないとんでもなく心地いい空間なわけ。

それが死んだあと感じる感覚なのではないかなー?という予感。

例えるならば、映画「マトリックス」。
この映画は主人公が見ている世界がシュミレーション仮説の世界そのものだという話だが、そのシュミレーション世界の「ほころび」がうまく表現されている(バグみたいな感じで)。

歴史上の偉人だ聖人だがちょいちょいネタバレしてくる内容もそうだけど、ちょこちょこコッチの世界のほころびが見え、アッチの世界が見えかけた時っていわゆる「悟り」(=この世の真理をチラチラちょっとだけカンニングできる瞬間)かな?とも思える。

つまり我々の「生」だなんだの命が枯れた先に向かうところは、物理次元ではなく、精神だけ・意識だけの空間(しかも個々の意識だけではなく全体がシナプスのように繋がっている感じ)なのではないかという風に、私は仮説を立てている。

つまり、命は死で終わりではなく(肉体の終わりではあるけど)、むしろ「意識」だけは永遠に終われない、のではないだろうか―。

未来は死に方すら選べるようになる

ただ、おそらく2050年以降などは、テクノロジーの進展で、「死に方」も選べるようになると思うのだ。

そんな未来風刺の話が、Netflixの「ブラック・ミラー」というオムニバスドラマの「サンジュニ・ペロ」という題の回にあった。

Netflixの「ブラック・ミラー」のサンジュニ・ペロ

死んだ人・または寝たきりの老人・病人などが、意識だけクラウドへアップロードされ、そこで本物の現実のように交流しあえる時代で、そのVR空間が「サンジュニペロ」という街。

現実では死にかけている老人の主人公が、このVRの街で若い美しい女性となって大好きな人(相手も女性)との恋に生きている。

死が近づくにつれ、現実の人生を考える主人公。

そんな中、恋人にずっとここ(VR空間)にいよう!と誘われるも、「こんなの真実じゃない…幻でしかない…」と一旦拒絶するが、果たして―?!といった話。

👆このドラマのように、VR空間で生きるバーチャルな世界が数十年後には当たり前になり、美しく楽しいVRを見ながらスイッチ・オフ🎵って感じで、安楽死・尊厳死のような状況が当たり前となるだろう思う。

今はお年寄りをただただ長生きが良いということで、管だらけに繋いで薬漬けにさせながらも長寿が素晴らしい!みたいな価値観だけど…

これは次第に「老人虐待だ!尊厳がない!」という考えになってきて、早く死んでしまおうが病気や障害など苦しみを軽減するほうが尊厳がある!という価値観へ変わるだろうと思う。

現在実は、既に「VR見ながら速やかに死ぬ安楽死マシン」は続々と開発されているが、安楽死是否の議論を長ーく経て、2050~2100年ぐらいまでにようやっと実用化されるだろうと見ている。

実在する安楽死マシン

直近は、より「死」が身近になる覚悟を

私個人には既にもう起きているが、身の回りの人がチラホラ亡くなった時のことを想像してみてほしい。

それは自分かもしれないし、周りの大事な人かもしれない。

このグッチャグチャな混乱の時代を経て、命はますます軽くなるはず。
それは決して「命軽視」って意味ではなく、むしろ「死」はいつかは等しく平等に訪れるってことを現代人も思い出す感じ?

そうやって本来の死生観に気づく人が増えていくんじゃないだろうか。

死を歓迎する海外文化(棺桶ダンス)

死ぬことを考えることは、生きることを考えること。

人の命が永遠だと傲慢に思い込むと、明日もあるさ明後日もあるさでつい「いつか」などと先延ばししたり、当たり前のことへの感謝も生まれない

しかし、限りがあることを改めて実感するとそうではなくなる。

大事な人とは、沢山会っておいたり。
いつもいる人への感謝を忘れないようにしたり。
この人生の一期一会にも、心底有り難く思えるだろう。

そのようにして、各自それぞれ「死」とじっくり向き合って死生観を塗り替えておくと、今後も自分の「死」や誰かの「死」に直面した時に、とても役立つかもしれない。

★参考記事

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hnw
6月6日6時うまれ。ちっちゃい子から大きい子までいる、こども3人の普通のお母さん(に擬態した変人)。コロナの数年前ぐらいから、この世が箱庭で予定調和であることにだんたん勘づいてきました。
仕事はエンジニア寄りのWebデザイナーです。
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